皆さんは「ヴァンデ・グローブ」というヨットレースをご存じでしょうか。単独無寄港無補給で世界一周し、「海のエベレスト」とも呼ばれるほど過酷なこのレースが日本で知られるようになったのはここ十年ほど。唯一の日本人選手として白石康次郎さんが2016年に初出場したのを機に、国内でも耳にする機会が増えたように思います。出場資格を得ること自体が相当に難しいこのレースに白石さんが3度目の出場をすると伺い、2024年大会のスタート直前となる10月下旬、レース開催都市である大西洋の港町レ・サーブル・ドロンヌを日本からのプレスツアーとして訪れました。
レ・サーブル・ドロンヌの新しいホテル、ヴェルティム Vertime に車で到着したのはほぼ真夜中のこと。辺りはすっかり暗く、周囲の道は大会の交通規制によるバリケードだらけで、街の印象が全くつかめぬままに初日の晩を過ごした。旅先で初めて行く街の様子は車窓の風景で、目的地に近づくにつれて次第にわかってくるものだが、この時は違った。
街の様子が初めて解ったのは、一夜が明けてホテル最上階のテラスに出た時だ。ホテルはヴァンデ・グローブが開催されるオロナ港 Port Olona の目の前にあった。出航を待つヨットが幾重にも並び、手前の陸側にはレースを盛り上げるための展示パビリオン (スタートヴィレッジ) が海岸に沿って長く設置されている。ヴィレッジの正面は海側、ホテルから見える側はバックヤード側となり、準備の車両や関係者が早朝からせわしなく出入りする様子が見え、一大イベントの内側にすでに自分がいることが感じられた。
まずは街の中へ
しかし、真夜中の到着で街の姿が見えぬまま、いきなり会場内にワープしてきた感も否めず、普段の町の顔が見たいと思っていると、最高の助っ人がホテルロビーに現れた。レ・サーブル・ドロンヌ観光局の広報担当ナタリー Nathalie だ。聞けば、日本から観光取材を組織的に受け入れるのはこちらの観光局として初めてのことだという。これも、ヴァンデ・グローブに白石さんが三度も参戦してくださったお陰だろう。まずナタリーが私たちを連れて行ったのは、レースの喧騒とはほど遠い、ラ・ショーム La Chaume という歴史ある静かな地区だった。白い漆喰の家にブルーの鎧戸がアクセントに並ぶ平和な路地は散歩するだけでも楽しい。

「ここはね、通りの名前が詩的なの」とナタリーは言う。確かに辻ごとに出てくる道の表記には「ため息通り rue du soupire」、「視線通り rue du regard 」、「愛の通り rue de l’amour 」と甘い言葉が続く。まるで80年代ドラマのタイトルにもなりそうだ。古い漁村であった場所だけに、漁に出た連れ合いや家族への想いを表したのか、はたまたすれ違いざまにロマンスが生まれた通りだったのか、語り部ナタリーの言葉も手伝って、様々な空想が広がるのであった。
ラ・ショームを港に向かって下ると、眼前に大きな水路が広がった。遊歩道と突堤が水平に伸び、水の上を様々な種類の船が行き交う。その中には水上バスもあり、海と港が暮らしの中心にあるのを実感する。突堤の尖端にある灯台まで目をやると、それが既に見た風景であることがわかる。そうだ、ヴァンデ・グローブのニュースでお馴染みの光景、出発時のヨットを見送る観客が黒山の人だかりを成す土台がこれだ。実際に見るとそれは相当に長い構造物で、その端から端を人が埋め尽くす状況を想像すると、改めてヴァンデ・グローブの集客力に驚かされるのだった。ちなみに、2024年の大会でスタートヴィレッジを訪問した人数は延べ130万人、11月10日のレーススタートを見送った観客数は50万人とも言われ、後者は東京ドームならぬスタッド・ド・フランス6杯分の人出に匹敵すると、現地メディアが伝えていた。

レ・サーブル・ドロンヌがヴァンデ・グローブやその他のヨットレースに欠かせぬ港であるのはぼんやりわかってきたが、やはり海辺のリゾートにやってきたなら広い海を見なければ。まずはランブレ (Remblais) 地区でグランド・プラージュ(Grande plage)と呼ばれるビーチ沿いの散策を楽しみたい。広大な砂浜を横に見る遊歩道は冬が近づいても穏やかな日差しに包まれ、かなりの賑わいを見せていた。乳母車を押す家族連れ、カップルに加え、ジョギングやサイクリングの人もいるが、誰もがインディアンサマーの気候を体全体に浴びようとゆったりしているように見えた。ナタリーに促され足元を見ると、さすがヴァンデ・グローブの地である。所々、過去の出場選手の手形が舗道上に埋められていた。「ヴァンデ・グローブのまちレ・サーブル・ドロンヌ」の文字と共に、手形の前には選手の写真も飾られており、とにかくこの町の英雄はヨット選手であることがわかる。

遊歩道の途中で旧市街へ一歩足を踏み入れてみよう。イル・プノット (Ile Penotte) と呼ばれるこの一画は塀に貝殻アートが施されていることで有名だ。形も色も様々な貝がぎっしり貼り込められた壁は、ドラキュラやこうもりの形となり、ユーモラスな世界観を作りあげていた。これは地元のアーティスト、ダニエル・アルノー=オーバン (Danièle Arnaud-Aubin) さんが1997年から始めたもので、年々その数を増やしているという。

いざ、ヴァンデ・グローブの会場へ
街の主要スポットを歩いてみてから、今回の取材の目的であるヴァンデ・グローブの会場へ向かった。第一印象は、とにかく凄い人出であるということだ。入場ゲート前の列、ヨットが係留された桟橋の上、ヴィレッジ、どこをとっても人人人…。レース開始までまだ20日ほどあるというのに、トゥッサン (諸聖人の祝日) を挟む秋休みが重なったせいか、家族連れの姿が目立つ。筆者は2024年7月にツール・ド・フランスの最終ゴール地となったニースの賑わいを体験したばかりであったが、このヴァンデ・グローブも同じく、一般客がレースの会場に足を運び盛り上げる様子に、似た雰囲気を感じた。しかもヴァンデ・グローブの方は、レースヴィレッジがスタートの22日前から開くとあり、長期にわたり人出が見込める。桟橋ではレースを控えたヨットを間近で見ることができるし、運よくスキッパーが目の前を通り過ぎればサインをねだることもできる。実際、白石さんが桟橋に現れれば、一歩進むたびにファンに取り囲まれ、サインと写真撮影のおねだり攻撃でほとんど前に進めなくなる様子を目撃した。

スキッパーが英雄視される理由は、やはりレース出場の難しさがある。2024年1月に日本で行われたヴァンデ・グローブの記者発表会で、ディレクターのローラ・ル・ゴフは、レース参戦できることの凄さを「過去にヴァンデ・グローブへ出場した人の数は、宇宙に行った宇宙飛行士の数より少ない」と表現した。この言葉を聞いたからだろうか、ヴィレッジ内に展示された出場スキッパーたちの等身大パネルは英雄そのもので、どことなく宇宙飛行士らしい風情を湛えているように見えた。
ところでヴァンデ・グローブに出場する選手の国の数は年々増えてきており、2024年は11ヶ国より40人が参加する大会となった。会場の至るところに出場選手の国旗が日本も含めて掲げられており、大会がまさに世界規模で行われていることを印象づけていた。これまで白石さんはアジア勢唯一の参加者だったが、今年からは中国の選手も加わっている。一方で、周囲の観客から聞こえる言語は圧倒的にフランス語が優勢で、ヴァンデ県近隣からの来訪者が多いようだった。今後、アジア圏から観戦に行く人がますます増えてくれればという期待を、大会関係者に会うたびに感じた。
ヴァンデ・グローブ2024のゴール
2024年11月にレースをスタートした選手は世界一周を終え、1月半ばからレ・サーブル・ドロンヌにゴールし始める。既に、フランス人選手のシャルリー・ダラン (Charlie Dalin) が1月14日に、これまでの記録を9日以上も短縮し、64日19時間22分49秒という驚異的な記録で1位でゴールした。ヴァンデ・グローブに参加する最新鋭ヨットは、海の上を飛ぶように進む羽(フォイル)が付いていると聞いたが、四年の間の技術革新は凄まじいものがあるようだ。ゴールの際もスタート同様に水路には多くの観衆が溢れ、花火を鳴らしながら、選手の帰還を盛大に祝うのがヴァンデ・グローブだ。白石さんはどのようにゴールするのだろうか。海上から毎日発信される動画を見ながらゴールの瞬間を心待ちにしたい。
レ・サーブル・ドロンヌの食
ヴァンデ・グローブがきっかけで訪問したレ・サーブル・ドロンヌであったが、食についてもぜひ紹介したい。 やはりレ・サーブル・ドロンヌに来たら、地元のシーフードを堪能したい。生け簀を備えた海辺のフィッシャーマンズレストランや、伝統的なビストロで、シーフード盛り合わせや水揚げ状況に応じた「本日の魚」料理が食べられる。 また、鰯は昔からレ・サーブル・ドロンヌの港を支えた水産品である。それを象徴するように鰯の缶詰はここの土産物の定番だ。地元の観光スポットを蓋の上に描いたものはジャケ買いも楽しく、幾つも購入してコレクションしたくなる可愛さだ。
レ・サーブル・ドロンヌ近隣のコミューヌであるリル・ドロンヌ l’Ile d’Olonne ではワインを生産している。ドメーヌ・サン・ニコラ (Domaine Saint Nicolas)は1960年にパトリス・ミションが設立し、その後ティエリー、その息子のアントワーヌ、ミカエルへと受け継がれ、ビオディナミ農法を取り入れたワイナリーだ。ワイン作りへの情熱はその解説からもひしひしと伝わってくれる。
さらに、世界最高峰のショコラティエを表彰するワールドチョコレートマスターズで2015年に優勝したヴァンサン・ヴァレ (Vincent Vallé) が、これもレ・サーブル・ドロンヌ近くのオロンヌ・シュル・メール (Olonne sur Mer) に本店を置き、チョコレート製作のためのラボとショップを兼ねている。ヨットレースが盛んな地であることからヨット型の特製チョコも販売しており、ヴァンデ・グローブの期間中は飛ぶように売れていた。

by Mayumi MASUDA フランス観光開発機構 広報担当